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看護に進んでから その2 [人生いろいろ]

人恋しい日、私は母親を思い出します。
絶対の存在であり、私の一番の理解者。

今日は、ずっと心だけにとめておいた母親との別れの日までについてつづっておきたいとおもいます。


8月31日。母は骨折して入院します。
それからはほぼ寝たきりの生活。その頃の私はまだ無力でした。
母を病院のベッドに寝かせておくことしかできなかった。

ただ、会いに行くことしかできなかった。
会いに行って、車椅子に乗せて、病院の屋上に行く。
そして、最上階のレストランで、母の食べたいものを進められ、結局9割私が食べるんです。
「ラーメン食べない?何でも食べていいわよ。」とかいって、食べたいのは母なんです。
でも「食べたい」と思ってくれていることが私はうれしくて、病院にいくときは必ずお腹をすかせていきました。

10月2日。
母と意思疎通ができた最後の日。
大腿骨を骨折し、モルヒネの量が増え、せん妄症状は強くなっていました。
話のつじつまが合わない・・・
「もう、私はいいのよ。ずっとここにいるほうが辛い。私はこれからどうしたらいいの?」
と私に泣きながら訴えていたのもこの日でした。
なんて答えていいのか分からず、立ち尽くしたのを覚えています。私はこのまま病院を後にしていいのか・・・帰りの車は重たい気持ちでいっぱいでした。

10月9日。
自宅に病院から電話が入ります。すぐきてほしい・・・と。
自宅には妹しかおらず、すぐに病院に妹を向かわせました。
私は、部活の試合の前日。
なんだろうと思いつつもまさか・・・考えもしなかった。

10月10日。
今日だけは試合で絶対に負けられない。心のどこかでいつもと違う闘志がわいていました。
私が大学でこの部に入ったのももとは母のせいというか、おかげというか・・・
とにかく負けられない、と思いつつも結果は銀メダル。
自分の負けのせいで優勝をのがしてしまいます。
試合後、父からの着信に気がつく。

「母危篤。すぐ戻ってこい。」

わけがわからなかった。
ただ、電話を切ったとたん、わけもわからず涙がとまらなくなってしまうのです。
地に足がつかない。身体がふわふわしていて、自分が自分でないような感じ。
試合場からそのまま病院へと向かいます。
病院へつくと母はすでに下顎呼吸。意思疎通もできません。

10月11日。
母の57歳の誕生日。
徐々に心電図モニタの波形が伸びていき、静かに心臓が止まりました。
呼吸が止まっても、心電図で心臓が止まっているのがわかっても、まだ動き出すのではないか?信じられない、とういうより信じたくありませんでした。

生前、母は病院の看護師さんに私が看護学生だということを話していたようで、最後のケアには私も参加させていただきました。
初めてのエンゼルケアは自分の母親。

頭の中は真っ白で、今思い出そうと思っても、あの時の感覚は全く思い出せません。
私は何を考えながらケアに立ち会ったのでしょうか・・・・

いえ、何かを考える回路は完全に停止していたんだと思います。








ありえない。。 [日々のできごと]

一昨晩、ありえない準夜勤務を終えました。
帰れたのは4時過ぎでした。(定時は1時です。)
始めから、終わりまで本当にありえませんでした。。。

緊急入院のタイミング、スタッフの協力体制、日勤さんのやり残し業務の山(ちなみに、このやり残しの多かった方、その前の晩の私の仕事に散々注意というか怒りというか・・・ばらまかれて帰りました。)
もちろん、これは私のミスなので、反省してますが少し言い方考えて欲しかったです。
さらに、言われた直後にその3倍はあると思われるやり残し・・・

一番ひどかったのは、最後の体位変換(以後体交)、私はなぜ1人で回らなければならなかったのでしょうか・・・
体交しなければならない人は普段の倍の人数がいたのに・・・
0時半から始まる体交、1時には遅くとも終わるはずでした。
1時まで1人で回りました。もちろん、うちの病棟は普段2人で体交してますよ。
別に1人体交の技術を教わっているわけではありませんよ。。。
   たまたま私が大学で、興味があって少し勉強してたから、できたんですよ。。
体交多い日は、深夜帯の休憩、少し遅くから入ったらいいじゃないですか・・・
なぜ私1人が頑張らなきゃいけなかったのですか??
準夜の勤務1時までです!!当たり前のように1時半まで体交してましたが・・・
みんなでやっても終わらない、それなら私1時半までだって何にも思いませんよ。
(そんなときは、たいてい、遅くまでごめんねとかありがとう、とか先にあがっていいよ、とか声かけてくれますが。。)
私、あまりの激務に、最後貧血で倒れそうになりましたよ。。

忙しいときこそ協力するのが夜勤だと思っていたのに・・・・
これまで先輩はたくさん手を貸してくれました。
もちろん、先輩が忙しいときは率先してお手伝いするときもありました。。
自分の仕事を後回しにしても、そのとき先にやるべきことを1年生ながらに考えてやってきたつもりでした。

とにかく、私にとっては衝撃的な準夜で、家についたとたん、涙が止まりませんでした。
みんなとってもいい人だと思ってやってきたのに・・・

忙しいのは分かるけど、なぜそんなにぴりぴりしなきゃならないのですか??
よく、自分、事故おこさなかったと思います。仕事はいつ怒られるかビクビク。。
4月5月のときのような気持ちでした。

1年目だから乗り越えなきゃならないことなのでしょうか??
きっと違いますよ。私担当の部屋以外の仕事もたくさんやってたんですよ。
先輩方はただ、まだ仕事早くこなせないんだ、としか思わなかったかもしれませんが・・・・





1日・・・いえ4時に帰ったので1日はありませんでしたが・・・・
家に引きこもって、このブログに残すこともためらいました。。

今日もあの日のことは全て家に置いて、仕事に行ってきました。
でもやっぱり忘れられません。

どういう経路かで、このブログを当人に見つかってしまったら・・・とも思いましたが、
私の心のはけ口として、つづっておこうと思います。

読んでいやな気持ちになった方、ほんとうにごめんなさい。。




看護に進んでから その1 [人生いろいろ]

胃腸炎もすっかり回復してきました

さて、今日は、大学1年生~の私について話していきたいと思います。


大学に進学した私は、新しい生活を楽しく過ごしていました。
大学の友達、飲み会、サークル、飲み会、勉強、飲み会・・・・
それでも、週末は実家に帰っていました。月に2回くらいでしょうか。

大学の勉強は、1年生ではまだ看護に関することはほとんど導入しかやっておらず、一般教養がほとんどでした。

母の調子はというと、始めの頃はまだ元気で、仕事にも行っていました。
しかし、年末になるにつれて、化学療法による体調不良に加えて、徐々に骨転移による疼痛も出現し始めます。。
ただ、肺や肝臓など臓器への転移はないことが家族中の希望でした。

年が明けると病状はさらに悪化。
春が来て、暑くなる頃には、一日仕事場に座っていることさえもままならないほど、体力がなくなっていました。
疼痛はそのつど放射線治療を受けていましたが、腰から大腿にかけての痛みが強くなってきて、1人で歩くのもつらい状況。

大学2年の夏休みの最後の日。
事件がおこります。

体調がどうしても優れない母は、明日外来を受診するといい、病院にいく前にお風呂に入りたい。
と、私にお風呂に入るのを手伝って欲しいと言うのです。
看護師の卵で少しずつ、基礎看護技術を学び始めていた私は、もちろん進んで手伝いました。

洋服を脱いで、さあ、お風呂に入ろうと、母の腕~肩を支え、浴室の段差を越えようとしたときでした。
母の足が膝おれし、支えていた腕に全体重がかかってしまったのです。
ボキッといやな音が聞こえ、そのまま、その場から動けなくなってしまいました。
母はそのまま、救急車で病院に運ばれ、入院することになります・・・


中途半端な知識・技術で介助しようとしたから、逆に骨折させることになってしまった。
自分のせいで・・・と涙が止まりませんでした。





ウルルン胃腸炎 [日々のできごと]

胃腸炎にかかり、3日目今日から仕事復活
・・・実際まだ固形物は口にできておらず、ちょっと多めにポ〇リ飲んだだけでもオエオエしてしまう状態。。

※ちなみに冷凍餃子は食べてませんよ!!

体力には不安をちょっぴり抱えながらの出勤・・・

でも!!行ってみるととってもやさしい部屋割りになっていました(T_T)
なんでも昨日私が「出勤します!!」と師長さんに宣言した後、師長さんより軽めの部屋にしてあげて、定時には帰れるように・・・とリーダーさんに言ってくださったそうです。m(_ _)m
行けば、みなさんより体調は大丈夫かと声をかけてくれるし・・・
あ、自分ここで働いててよかった・・・と感じる瞬間でした。。
結局結果的には今日も忙しくてそれでも走り回ってましたが・・・帰れたのは8時ちょっと前でしたが・・・

でもそんなのかんけいね~

おかげさまで、今晩は煮込みうどん3割摂取に成功!!
3日ぶりの固形食でした。
食上げ中の患者さんもこんな感じなのかな・・・
朝お腹が悪化しないことを祈ります。

明日も頑張ってきます!!

 


胃腸炎 [日々のできごと]

に、なってしまいました

昨日、勤務中から、なんか気持ち悪い・・・・と思っていたら、昼の休憩交代のあたりから、ゴロゴロといやな音がお腹から聞こえてきます。。
10分ごとにトイレに駆け込む状態。。
そして嘔吐。
そのまま病院の救急外来を受診しました。

結果、胃腸炎。

点滴を一本投与してもらい、早退させていただきました。

帰ってきてから、今度は発熱!!!
久しぶりに39℃の大台を見ました。

寝たら下がるかと思いきや、いっこうに下がらなかったので、朝方〇ファリンを内服。

下がりました。。
昼前には、36.2℃!!

熱が下がったら、なんか急に元気が出てきました。
身体の軽いこと軽いこと!!
トイレの回数もだいぶ落ち着き、今や3~4時間に1回。

これなら明日からは仕事に復活できそうです☆
今日もお休みもらっちゃったし、勤務調整だいぶ迷惑かけちゃったんだろうな・・・
この場をかりて、お礼申し上げます。ご迷惑、ご心配をおかけしました。


私が看護を選ぶまで その3 [人生いろいろ]

今日は、たくさん負傷をおいました。。。

脳外の患者さん、大暴れ。抑制の手袋しながらなぐる、蹴る、ひっかく。。。力の強いこと。。。
帰ってきてみれば、身体小さなあざや引っかき傷がちらほら・・・・・

 

さて、今回は「私が看護を選ぶまで その3」をつづります。。


自分の中でもやもやが晴れないまま、入試を迎えます。
母は、原発である乳がんの切除術を受け、ちょうどセンター試験の前日に退院します。

もちろん、もやもやしている私の勉強は完全に不十分。。
そして受験は見事に沈没
でも逆に、私の気持ちは晴れました。

「もう一度、しっかり考えよう。」

自分は、いったい何をしたいのか。

それを考えたときに一番に出てきたのが、「母の力になりたい」ってことだったんです。

最初、ミーハーな私は医学部をめざそうと意気込みますが、1ヶ月で息切れ
とにかく、医療に携わろう。少しでも医療の知識を身に付けて、母にとって「頼れる存在」になりたい。
と思いました。

6月の予備校の小論文の授業でした。
看護のすばらしさにであうことになります。

それまで看護といえば、医師>看護師の上下関係ともいいますか、看護師は医師の補助役としてしか、私にはイメージになかったのが本当です。
なんとなく、看護を見下していたんです。

でもそうじゃなかった。。

現在はチーム医療の時代。医師-看護師は対等。看護には看護の役割がある。
患者さんによりそい、患者さんの異変に一番に気がつける。身体の異変にも心の異変にも。
そして、元気になって、不安のない状態にして地域に帰す。
医療の一連の流れの中で、常に一番患者さんに近い存在であるということを知るわけです。

さらに、意識障害の患者を看護の力で回復させ、最後には社会復帰させる!といった、とある大学の現大学教授のプロジェクトの話をもとに作られた小論文の問題文章に心を奪われました。

看護ってすごいんだ!!

それに看護なら、母親の最後のときにも自分が少しでも役に立つのかもしれない・・・・
そう考えたのです。。

それから先は、勉強にも身が入り、看護系大学への進学に向けて一直線で駆け抜けました≡3

浪人中、苦しい時期は何度かやってきましたが、不思議と勉強はいやではなかったですね。。


そして、春第一志望の大学に合格
看護道への道を進んでいくこととなるのです。。。

母は、術後化学療法をうけつつ、骨折の痛みに対しては放射線治療を受けながら、もともとの仕事を続けていました。。
まだまだ、別れのときが来るか、なんてことは到底考えられないぐらい元気に生活していました。



 


自炊!! [日々のできごと]

明日から、また仕事です。。

ところで、いきなりですが、私の今年の目標は、自炊!!!です

一人暮らしを始めて、5年もたっているので、もともと大体のものは料理できます☆
でも、社会人になり、そこまでの気力は残っておらず、コンビニやファーストフード、ファミレスなどなどにお世話になってきました。。。

でも、そろそろ普通の日はご飯を作ろう・・・と
とはいっても時間のかかるものはやっぱりあまり選択しがたいのですが・・・
今日の晩ご飯には他人丼をつくりました☆

今日はあいにくの雨でしたが、休みの日に食料を調達してくるのが私の日課になっていて、今日もスーパーに買い物に出かけました。
オージービーフと国産豚肉がほぼ同じ量・同じ値段で売られていました。。
さあ、どっち!?
私は国産豚肉を選択しました。今日は卵の日で卵もお安くなっていたので・・・⇒他人丼に決定!!
おいしくいただきましたm(_ _)m

ゆっくりお風呂に入ってそろそろ寝ます


心が折れる [日々のできごと]

深夜明けで、ようやく今頃になって身体が言うことを聞き始めました。・・・
昨晩は、ほんとに忙しく・・・ナースコールがやまない。。。

 

久しぶりの日勤・深夜だったので、心身ともに疲労が蓄積しました。。。


その上、次の勤務表では、4連勤・1休・5連勤・1休・4連勤・1休・3連勤・・・・・この連勤の嵐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・4・5・4・・・・このサイクルはなかなかなものです。。

果たして身体は持つのでしょうか・・・

入職しはじめは、普通だったのですが、(しかも夜勤もなく、全て日勤で!!)あのころはよくがんばった、とほんとに思います。
4日勤とか5日勤とかやると、リアルに朝目覚めたときに足つります!!

 

まだ1年たっていないのにだめですね、こんな不満ばっかり

 

でも4連勤後の1休なんて、予定なんていれられませんし。。。
とくに準夜明けの1休って、仕事休日にかぶってるし!!!(勤務時間翌日の1時までなので。)

今日の忙しさ・今後の勤務の重さに心が折れます。

 

今日は愚痴だけ言ってまた寝ます。。。おやすみなさい。。。

 


私が看護を選ぶまで その2 [人生いろいろ]

今日はお休みです
これから、雪になるみたいですね・・・今はいいお天気です

 

今日は、私が看護を選ぶまで その2ということで、高校3年生からのできごとをつづりたいと思います。

高3のとき、周囲はもう受験ムード一色。。。
まだ進路がぱっとしない自分。。。
でも勉強勉強・・・の毎日。

そして訪れた11月。母方の祖父が亡くなります。
祖父はそれまで、もうほとんど寝たきりの状態でした。
それを主に介護していたのが母でした。
介護といっても自宅と母の実家は片道電車でも3時間もかかる道のりです。
それを週に多いときで4回も行き来していたんです。
 
祖父の最後は、朝冷たくなっている祖父を祖母が発見するといった形でした。
きっと、夜中に静かに息を引き取ったのでしょう。もう90歳を過ぎていましたから、長生きともいえるでしょうか。。。
でも、そのときなんかぽつーんと心に隙間が開くような感じがしました。

あ、身内がなくなるってこんな感じなんだ。。

 

葬儀などが終わり、12月に入った頃、今度は母親が右腕を骨折します。
あきらかに、腕の痛さは尋常じゃない。早く病院へ行くよう言っていたのに、なぜか病院にいきたがらない母・・・

骨折は、ただの骨折じゃなかったんです。。。。

乳がんでした。乳がん、それも骨へ転移しており、転移による病的骨折だったんです。

乳がんは自己検診でも発見できる、初期症状でも自覚できる数少ないがんです。
母は知っていたんです。自分ががんだということを・・・・


骨転移・・・それは乳がんでもステージⅣと一番重いステージに分類されます。
5年生存率は本や病院でも異なりますが、当時私が調べた本だと20%以下とありました。

5年後に母はいない!?


私の中で、何かが変わろうとしていました。
でも時間はどんどん過ぎ、センター試験・入試は始まってしまいます。。。


私が看護を選ぶまで1 [人生いろいろ]

今日は、土曜日のくせに、すっごく忙しかった
本来、土日は穏やかなものなんです。

私は、今外科系の病棟で働いています。メインは消化器外科です。
外科病棟は、平日は定時入院・手術のため、とても忙しいです。。
その分、土日休日は医師も交代で休みになるし、落ち着いるのが普通。

今日の忙しさは曜日を忘れるほどでした
私の勤める病院は救急病院のため、緊急入院の患者さんもたくさんいらっしゃいます。
今日は、救急車がすごくいっぱいきたとか・・・
HCUに空きをつくるため、HCUから転入がたくさん来ます。そして来週手術の定時入院もなぜかたくさん。。
退院もたくさん。。。さらには急変

こんな日、自分のcapacityの小ささを実感します。。。。
今日も先輩方にはたくさん助けていただきました

 

 

私はずっと教師になることを夢見ていました。
それは、自分の両親が教師であったこと、さらに、小学校4年生のときの先生にあこがれていました。女性の先生だったのですが、当時新任にもかかわらず、とてもすばらしい先生でした。
なんとなく、先生って硬いイメージで将来の夢というのが恥ずかしい時期もありましたが、いつか自分も先生になるんだ・・・と心の中でひそかに夢を膨らませていました。
それで、高校のときは本当に大学では教育学部を専攻しようと考えていました。
でも、ただ教育学部に進むのもつまらないな、と思い、何か自分の得意分野を作りたいと思っていました。高校2年ももう終わろうとしていた頃のことです。
そこででてきたのが「心理学」。でも、父親大反対!!!
当時、心理学部はすごく人気の学問でどこの大学も入るのが難しい。その上心理学がそのまま就職に役立つことはあまりない・・・つまり割に合わない学部であると。
なぜ父がこんなこと言うかというと、父は高校の教師で、ずっと進路指導をやってきていたので詳しかったんですね。(父の話はまたいつかゆっくりと)

じゃあどうしよう・・・いっそ教育学部自体白紙にして考えてみるか・・・・
そこででてきたのが、当時大好きだったドラマ「HERO」・・・・検察官か!!!
無謀です。。でも、そこから法とか経済とかそういう方面にも興味を持ち始めていました。

そして、なんのまとまった考えもないまま、入試への準備が着々と進められていくわけです。

そうなんです。高校3年まで看護の「か」の字もでてこなかったんですよ。


それが、わたしにとってある転機がやってくるのですが・・・・


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